思うこと 140805

 先日ちょっとした会議があって、記録係をやっていたのだが、 どうしても発言したくなったので、話をしてしまった。
 この頃は、高校でも課題研究というのがあって、 しかも数学もやることになった。 数学の課題研究は大変である。 大学の学部ですら、卒業論文がないのが、数学科である。 大学院ですら、修士なら自分の興味を持ったことで、 現在知られていることの整理とその延長にある問題を調べる程度で よかったりもするのが、数学科である。 だから、かねてから主張するとおり、 数学史的な視点からの興味をもったことのまとめでもいい。 あるいは、興味を持ったことについて、データをとって 予想を立てるというのもいい。 できれば、証明があるととても数学らしい。
 昨年から今年にかけて私が担当した生徒は、 いわゆる純粋数学でとてもいい研究をしたと思っている。 大学の先生方がどう評価を下すかはわからないが、 少なくとも指導教官の私は2組とも高い評価を与える。
 そんななかで、彼らの研究は一般の高校生には理解できないのだから、 課題研究にはふさわしくないのではないか。 という声が少し聞こえてきた。
 これに対しては、断固として反対の論を張ることにする。 学問は特に数学は自由でなくてはならない。 何物にも媚びる必要はない。 理解されなくてもいいくらいの気持ちがあっていい。 ただ、学問に対して誠実であればいい。
 研究者は孤独である。ただただ、自分の興味と信念をもとに 真理に向かって研究していく。
 高校生なんだから議論するという学習も必要である、 という主張は確かに正しい。 でも、それが目的ではないだろう。 疑問に思ったことに、真摯に立ち向かい、 解決しようと努力するのが真理を探究するひとの 一番大事な心構えである。 評価なんかどうでもいい。
 私もだいぶ歳をとったので、 好きなことをいえるようになったが、 若いころから権威が嫌いで、 今でも、地位をかざして物をいう人は大嫌いである。 もっとも、何か言いたいから、地位を目指す人もいて、 私もそんな悪魔の囁きには負けてしまいそうになることもある。 人間は弱いものである。 歳だけは平等にとるから、 年功序列というシステムはたまにはいいものだと思っている。
 もう一度書くが、数学は自由である。 考えることは何物にも束縛されない。
 2014年も8月を迎えているが、 本物を見極める目が大切だと実感している。 どうも風向きが変わってきているぞと思ったのは、 12年から13年にかわる冬のことだったのだが、 14年はいろいろなことが起こっている。 残念ながら、いろいろと警告したにもかかわらず、 私の周りでもわかってくれなかった人は多かった。
 課題研究を指導していて思うのだが、 理科と数学はやはりだいぶ違う学問である。 同じ理系でも理学と工学では違うし、 さらに、理学でも数学と他のいわゆる理科とは違う。 何がそうさせてのかは、答えはないだろうが、 私は、数学はお金にならないというのが、 数学科をそういう雰囲気にさせているのだと、 このごろ思う。
 1月から巷をにぎわせた、STAP細胞なるものには、 最初から違和感があった。 今言うと完全に後出しになるのだが、 一般紙の一面を飾ったときに、 大発見だから一面に取り上げられたというのは どうも腑に落ちなかった。 専門家ではないので、 そんなことがありうるわけがない、 から腑に落ちないのではない。 有名雑誌に取り上げられただけでこの騒ぎかよ、 検証が甘すぎないか、 という違和感である。 中には、苦労話に乗せられたひとまでいたようだ。
 案の定、その後、ほぼ素人から問題点を指摘されて、 再検証が求められた。
 そして、悲しいことに一度持ち上げたものを、 マスコミはコテンパンにたたき始めた。 そんなことが、今年2回目である。 部数が出ればいいのか、視聴率が取れればいいのか、 たぶん19世紀くらいの大衆社会ができつつあったころと、あまり変わっていない。 マスコミだけでなく、 ブログなどの炎上やアクセス、リツイート数を競うのも感覚として同じである。
 そして、残念なことにこの事件は 科学がまだ錬金術とほとんど変わらないことを露呈させてしまった。 まだ、17世紀18世紀とそんなに変わらないのである。  私は、数学を生業としているものの端くれとして ここだけは譲れない。 数学にはこの事件は決して起こらない。 昔は起こったかもしれないし、 好き嫌いで人事が動いたかもしれないが、 人事は知らないが、少なくとも研究の評価は、 人間臭いところでは起こらない。 それが、数学の学問としてすぐれているところであり、 さっきも書いたが、自由なところである。
 それほど、数学における証明は厳格である。 正直言えば、私はそれには耐えられないと思ったので、 研究者の道は諦めた。
 なぜ、今日これを書いたかは、当然お分かりだろう。 数学者も自ら人生を閉ざしてしまう人もいるが、 たぶん理由は違うだろう。 今日の事件は本当に悲しい。 全く面識もないのだが、 同じ時代を生きているものとして、 ご冥福をお祈り申し上げる。
 みんなで考えれば、自然科学から胡散臭さが減っていくだろう。