英語による数学の授業

 2013年6月だったか, このSEM の会に山田和美先生のところの留学生が参加していました。 数学と英語について考えていた私にアイディアが浮かびました。 英語で数学の授業をしてもらえないだろうか。
 大学ではいわゆる洋書で数学を勉強する機会がありましたよね。 もちろん数学に限ったことではありませんが, 情報交換をするためには,共通語に一つである英語がどうしても必要になります。
 また,私たちは幸せなことに母国語で数学を学ぶことができます。 ですが,それは弊害もあるような気がしています。 数学は 考えることすべて だと思っています。 私たちは言語を用いて思考しているわけですが, 残念ながら,日本語は正確に論理を記述するには少し不十分です。 数学ができるひとに悪い人はいない というと, 俺は数学ができないから悪人かい と言いがかりをつけられる  と,笑い話をすることがあります。 数学ができる人に悪い人はいない が命題だとすると 数学ができない人は悪人である は裏の命題ということになります。 真偽は必ずしも一致しない。 日本語は,逆の命題,裏の命題が元の命題と同じに聞こえる。
 あるいは,必要 十分 のように日常で使われている語句と 多少違って使われるものがある。 だったら,英語で表現したものを学んでみたらどうだろうか ということを考えました。
 多少偏見も交えるのですが, 英語は努力が結ばれる教科だと思っています。 努力しただけ成果が上がる。 もっというと,それには限界がない。 他にもそんな特性のある教科があるけれど, 受験生を とりこ にするもののような気がしてなりません。 やっているうちは苦痛だけど,結果が出るのでやりがいがある。 英語科の教員にもそのことを分かってか,分からずか  自分たちのことしか考えていない人がいる。
 それに比べて数学はやりがいがない。 つづけていると,どこかからはポンとステージがあがるのですけれど。
 しかし,社会に出れば,英語は道具でしかない。 全く英語ができなくても生きていける。 数学はできないと生きていけません。 これには,数学に対する誤解があるのですが, 先ほどの言葉で number studies だったら,普通にいえば 数学の知識だけなら社会に出ればほとんど必要ありません。 でも,mathematics なら 言い換えれば 考える姿勢 問題を解決する姿勢  と数学をみれば 必要不可欠だと思います。 これは,人類の歴史が物語っている。
 だから,申し訳ないけれど, ツールとしての英語を取り入れたかった。 英語で議論するのは大変です。 歴史も文化も違う人と,政治の議論は難しい。 でも,数学なら英語で議論できるはずです。 そう思ったのです。
 13年度は2回来ていただきました。 1回目は講義でした。 指数,対数の話をしてもらいました。 サニールさんが,イギリス人でないという点がよかった。 そして,ウガンダのブライアンさん,スペインのホアンさんと, 肌の色,目の色も違う人たちが英語というツールを使って, 同じ問題を考えるのは,生徒に対して貴重な体験をさせたと思っています。
 もちろん,私にとってもよい体験でした。 ただし,数学の議論はできるけれど, 日常会話や事務手続きについては, 私の英語力では全く足りませんでした。 出直してきます。
 2回目は課題研究基礎の発表準備を見てもらいました。 これが大変良かった。 数学の問題の解法を英語で説明することが課題でした。 5人ほどの4グループに対して,3人の方が直接指導していました。 生徒も講師の方々も日本語は全く使いません。 生徒はそれでも英語でやりとりをしていました。 1年の2月頃でした。 生徒の力にとても感動しました。
 14年度は1回でした。 2講座並行でした。 一つは 一刀切り,もう一つは 幾何の問題を考えて, 生徒に英語で発表してもらいました。
 生徒の英語は結構でたらめなんだけど, なぜ英語を学ぶのか,なぜ英語が必要なのか, 学んだ英語を生かす機会を作ってあげられたと感じています。
 今年度は今のところ計画がありません。 何かよい手がないかと探しています。

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